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活動地域からの声【第四回】
2011-04-25
活動地域からの声【第四回】
ルチ・ムリエさん(56歳)
 
ムリエさんは現在ラタナックモンドル郡ラスメソンハー村で農業を営んでいます。
ポル・ポト時代にも、その後の第三次インドシナ戦争の際にもずっとカンボジアのために戦い続けてきた方でした。
1998年、ポル・ポトの死亡が確認されるまでクメール・ルージュと戦い続け、その最中に地雷事故にあい、左足のひざか ら下を失いました。
当団体のスタディ・ツアーの際、内戦時とその後の苦しい経験を語って聞かせてくださいました。 
 
ルチ・ムリエさん
 
内戦前、カンボジアはとても豊かな国でした。自然が多く、動物もたくさんいました。イノシシ、ヤギ、象、うさぎ、鹿…。
治安もよく、どこにでも自由に行くことができました。食べ物も豊富で、自然農法で育てていました。今の化学肥料を使った農法もありますが、やはり自然に育てるのが 良いと思っています。
楽しい思い出はたくさんあります。お寺での大きなお祭りがありましたし、お正月やお盆など、皆で一緒に過ごして、とても楽しかったです。
 
内戦中はファシズムがはびこり、自由がない時代でした。
 
私は強制労働のキャンプに入れられ、ダムや道路建設、コンピンポイダム(※1)建設にも参加しました。
コミューン(強制労働キャンプ)は1000~2000世帯が暮らしていました。常に食糧不足の状態でした。そして、 誰かが殺されるというのは日常茶飯事でした。私も何度も処刑を見てきました。誰もが殺される時代―。
「明日、自分は太陽が見られるのだろうか…?」と息を殺しながら生きていました。
 
私はポル・ポト政権と戦おうと、ロン・ノル政権時代にはアメリカ兵として戦いました。(※2)1978年、ベトナム軍が侵攻してくると(※3)、クメール・ルージュと 戦うためにアメリカ軍に入りました。クメール・ルージュがタイ国境付近まで追いつめられていくとアメリカ軍、ベトナム軍などが入り乱れ、 疑心暗鬼の時代が始まりました。プノンペンはベトナム軍が占領し、私は他国に占領されるのが嫌で、カンボジア国軍兵士として戦いました。 全ては自由を手にするためです。
 
1996年、私はカンボジア国軍の遊撃隊として戦っていました。遊撃隊は私を含め10人で、私は先頭を歩いていました。
地雷があることは知っていましたが、カンボジア国軍で既に撤去してありました。しかし、クメール・ルージュによって新たに地雷が 埋められていたのです。
私は地雷を踏み、足の甲が爆発したのを覚えています。
仲間に迷惑をかけたくないので、銃で自殺しようとしました。それが当時の兵士の常識だったのです。しかし、仲間はそれを止め、 私を病院に運んでくれました。
 
病院へたどり着くと、もっとひどい地雷の被害にあっている人々を見ました。それを見て私は、もっと生きていこうと思ったのです。
怪我をしたのは足の甲だけでしたが、膝から下全てを失うことになりました。当時の医療技術は遅れていましたから。 
私は今、朝、目が覚めると太陽が見られる。明日も太陽が見たい。100歳まで生きたい。そう思います。人生は先の見えない ものです。だから次の日の太陽が見られるだけで、嬉しいことなのです―。
 
カンボジアは内戦のせいで愛する人と別れなければならなくなり、貧しく、未来がない。手足が亡くなった人、教育のない人、障害を負った人、 全ては内戦のせいです。だから、平和を大切にし、戦争をしてはならないのです。

(※1)2006~2007年当団体活動地スラッパン村近くのダム。ポル・ポト政権時代の強制労働によって建築された。
(※2)1971年、アメリカはロン・ノル政権支援のため南ベトナム軍の一部をカンボジアに侵攻させた。
(※3)1987年、ベトナム軍は亡命カンボジア難民から「カンプチア民族救国統一戦線」を組織し、元クメール・ルージュ将校でベトナムに亡命していたヘン・サムリン を擁立し、打倒ポル・ポトを掲げ、カンボジアに侵攻した。
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